不可説日記

日常の何気ない出来事を極度に歪曲してつづります

雑記不可説ボツネタ集 ふつうの不可説編

受験勉強で記事を書いている時間がないので、今まで発表していなかったやつをここに全て載せておきます。

まずは、ノーマルな不可説から。

空気の缶詰

ちょっと前に、空気の缶詰、というのがありましたよね。あの、実質空っぽの缶を「空気が入ってます!」とかいって売るやつです。あれは下らないものだと思うかもしれないけども、私がまだ子供だったころ…そう、戦時中は…飯を食えるのも、空気をまともに吸えるのも、軍人さんだけでの、戦時中じゃなにもかも、食料も、衣服も、みんな不足になって…子供まで畑仕事だの、工場だのに駆り出されて…もちろん、空気も、当然不足するわけじゃ…じゃからわしらは、呼吸もほとんどできないで、みんなでひもじく、生きていた…いや、生きてるのか死んでるのかわからん状態でおったよ…じゃから、たまの配給で、そんなに大きいものじゃないがの、缶にいっぱいの空気、空気の缶詰がやってきたときには、どんなに嬉しかったことか…みんなで缶を切って、大切にとっておかないかんとはわかっとるんじゃがの、がまんできなくて、大口あけて、一気に吸い込んだのじゃ…缶詰の空気を吸った時だけ、ああ、わしらは人間じゃ、生きておる、という実感が…たかが数秒程度じゃが、いちおうは生きている、ということが、わずかにわかった…というのは全部ウソです。はい。

読者の方からの投書

【読者の方から寄せられた投書のご紹介】 サトウ タロウさん(52) 「最近の子供たちは、けしからん!道を歩いているのをみても、ふにゃふにゃしていて、根性がないと思う!だいたいこどもというのは、こどもらしく、けなげに勉強して、けなげに遊んでこそ、健全なこどもというものだ。私が小さいころには、遊ぶといったら、みんなで家に集まって、お菓子など食べながら、Wiiとか、DSとかを、みんなでするのに決まっていた。私たちの世代では、実際にみんなで集まって、実際にコミュニケーションをとりながら、お互いにふれあっていたから、社交能力もそういうところで培われていたし、ふれあいも人情もあった。それが今ではどうだ。VRゴーグルなどというものをつけて、仮想の世界で、仮想の友達とあれこれするのに入りびたりになっている。実際に顔を合わせなければ、コミュニケーションということはできない!このままVRをつづけていれば、社会的なつながりが希薄になってしまい、昔のようにふれあいで充実していた時代の記憶さえも失われてしまうに違いない!」

雲をつかむような雲

雲を眺めていると、神妙な気持ちにさせられる。雲ってなんか、つかみどころがない。雲をつかむようなものだ。何を考えているのかわからないところがいい。だって気が付いたらいろんな形になっているし、いつでも同じ方向に何をするとでもなく流れている。いわゆる「ゲシュタルト崩壊」というものがあるけど、曇り空を眺めていても、そのような気持ちになることがあるのだ。あれ、たしかに空というものはいつもあるはずだけど、こんな景色だったか?こんな奇妙なものであったか?冷静に考えてほしい。空にあんなフワフワしたよくわからん物体が浮いていたら、怖いと思いませんか?日常の景色でも、よく見ていると、じつはすごく不思議なものだったりするのだ…ガス惑星である土星木星でも、似たように、大気には雲が浮かんでいるという…じつはこれは地球の景色ではないのではなかろうか?…というのは本当で、実は私はいまこの文章を土星で書いています。金属水素の海におぼれそうですけど、私は元気で~す。スタジオにお返ししま~す。

イシクラゲ

イシクラゲという生物がいる。これは目があった人をみんな石にするクラゲ型宇宙人ではなく、なんかニュルニュルしていて藻のようにもわかめスープのようにも見えるよくわからん緑色の物体である。これが雨の日の庭に落ちている。私も海岸でさわったことがあるが、やはり手ですくってもすぐに崩れてしまって、どうしてそんな姿をしているのかとか、どういう気持ちで生きているのかとか、趣味は何かとかなどのインタビューはできなかった。やはり、何を考えているのかわからない生き物、というのは愛らしいものだ。犬とかはシッポふったら喜んでいるのだとわかるが、ナマコとかアメフラシとかそういうのは顔もないし、一切感情もなくただ這っている。動いていなかったら、ただの変な棒だ。ただの棒が動いていて、しかも生物である、という現実がおもしろい。イシクラゲも何もしゃべらないし、しかもこいつはシアノバクテリアであるという。

日本古来のシュウマイ


「秋に入ったのにもう冬みたいだなあ」という表現は本来はオカシイ。というのも、もう冬みたいだったらそれは冬だからである。別に西暦に従う必要はない。もちろん昔にも暦はあったが、少なくとも今みたいに一日を1440等分した単位に従って行動するとかそういう変なことはしていないはずである。たとえば料理書一つをとってみても、「一晩」とか「何日も」とか、あるいは単に「蒸して」「油で揚げて」としか書いていなくて、今のように「何分蒸して」とかはなく、個人の好みの加減で蒸していたと思われる。しかし時計というものが伝来し、それに加えて従来の暦とずれた西暦が導入されたことにより、日本人の蒸し時間に対する感覚は激変してしまった。それまではものの変化を単位にしていたものが、科学的、数学的にわけられた時を基準にしてものを蒸すようになってしまったのである。これじゃおいしいシュウマイはできないはずだ。

さびれたショッピングセンター

私はさびれたショッピングセンターが好きだ。廃墟はおばけが出そうなので嫌いだが、さびれたショッピングセンターであれば営業中だからおばけは出ないし、なんといってもバリバリ営業中なのに人が全然いないという開放感や、「休憩所」と称して閉店した店舗の跡地に適当に椅子を置いてごまかしたりしているシュールさがとても趣深い。滋賀のピエリ守山や武生のCIPY、宇宙人の置物が売っている石川のまっとう車遊館など福井近辺にもいい感じのものは多いが、ぜひ一度行ってみたかったのが岐阜のLCワールド本巣(現在は閉店)であり、ここは営業中にもかかわらずテナントが一軒もなく、唯一電気がついている場所はスーパーの跡地にある玉ねぎ売り場であり、なんと広大な敷地で玉ねぎしか売ってないというのだ。どうやら契約などの関係で「規定年数の間は何が何でも営業させといてください」という事態になっていたらしく、「スーパーマーケットの営業縮小」と称して玉ねぎのカゴがぽつんと鎮座しているというまさに唯一無二のシュールレアリスムの極致だ。こういうテーマパーク、もっとあってもいいと思う。広大な敷地に観覧車やジェットコースターがたくさんあると思いきや全部休業中で玉ねぎしか売ってないという遊園地に行ってみたい。そして玉ねぎ買ってSNSに自撮りアップしたい。

ヘルモントの実験

私は放送部も兼部していますが、先日放送室の掃除をしていたら、放送器具と壁の間の微妙な隙間にヘビがいました。放送室は一時騒然となり特殊部隊が出動するまでにもなりましたが、実は本物じゃなくておもちゃだったことが判明しました。しかしいったい誰があんなスキマにヘビのおもちゃを置いたのでしょうか?誰かのいたずらでしょうか。しかしこの高校にはいたずらなんてする人はいないのでおそらく自然発生したという説が有力でしょう。しかしこの説には欠陥があります。それは自然発生説は現代では完全に否定されているということです。17世紀に医学者であったヤン・ファン・ヘルモントは、小麦の粒と汗で汚れたシャツに油と牛乳を垂らし、それを壺に入れ倉庫に放置し、ハツカネズミを自然発生させるという実験を行い、自然発生説を証明しようとしましたが、後に否定されているのです。しかし現に、放送部員がいらないものやゴミ、ホコリなどを放置したところ、ヘビのおもちゃが自然発生しているのです。これはどういうことか?賢明な読者の方々なら、もうお分かりですね。自然発生説は、あくまでも生物の分野において否定されたのであって、ヘビのおもちゃの自然発生説はまだ否定されていないのです。それを私たちは証明したのです。この実験は今日のヘビのおもちゃ学会では否定され、糾弾されるかもしれないし、そもそもそんな学会は存在しないし、さっきからお前はいったい何を書いてるんだと糾弾されるかもしれませんが、もうお分かりですね。こんなコラムを読んでも役に立つことは何ひとつないということです。「不可説」読むの時間のムダ説の立証であります。

キジについての記事

キジについての記事
※この記事はウソです。
キジとは三百年生きる鳥です。主食は公園の砂場の砂とおいしそうな岩です。キジとは頭足類ナガイモ科ピグミーマーモセット目エゾハリイカモドキ属に属する鳥です。キジとは何か?その疑問を解決するため、島根県都知事をつとめているアリストテレスに代表される哲学者が2000年前からずっと考え続けてきた疑問ですが、ついに解明されました。キジとは生物ではなく、私たちの意識体ネットワークの中を定型をもたずに漂う無形電子生命体の一種なのでした。キジはあなたの望んだところに現れるのです。きびだんごさえあれば。きびだんごは我らを五次元空間へと導くパスポートのようなもので、キジは次元の運び屋さんです。五次元空間とはどんなところでしょうか。私は行ったことがありますが・・・行くべきではない、ということは言っておこう。今は駅のホームで駅弁を売り歩いている男に集中せよ。

COVID-19に関するえらそうな文章

今回はパンデミックについての考察だ。これはコロナ渦ともいうが、別の言い方をすれば、「新型コロナウイルスの流行」ということもできる。これは、COVID-19の感染者が急激に増えていることを意味している。たとえば、コロナウイルスに感染した人が一人いるとする。つまり、コロナウイルスに感染した人が一人いた場合、その人はコロナウイルスを体内に保有しているということになるのだ。そして、驚くべきことに、コロナウイルスは人から人にうつることが研究によりわかっている。つまり、その人と接触した人がまたコロナウイルスに感染する可能性があるのだ。こうして、コロナウイルスの感染者が増えていく。かりに、10000人のうち100人がコロナウイルスに感染していると仮定すると、その集団のうち1パーセントの人がコロナウイルスに感染している-別の言い方をすれば-コロナウイルスの罹患者であるということなのだ。では、わたしたちはこの現象に対してどうすればよいのだろうか。まず、コロナウイルスは、ウイルスが体内になければ何の症状も起こさないので、COVID-19感染症にならないためには、コロナウイルスを体内に入れないことが必要だ。しかし、コロナウイルスは人から人にうつるということを知らない人が多いので、コロナウイルスをうつさないようにすることも必要となるだろう。このパンデミックにおいては、コロナ渦に巻き込まれないように行動することが、何よりも重要視されるべきことなのである。

エアーズロック寿司

エアーズロックというのがオーストラリアにありますね。そこの内部には実は回転寿司屋があります。この回転寿司屋はそれ自体も回転しており、カンガルーの肉や毒入りトランペットなどの新鮮なネタを出しています。しかし、それはまた別のお話。今日は卒業式について話をします。まず全国の卒業式においては卒業生に卒業証書のかわりにサバ入りのアップルパイを渡すのが定番になりつつあります。私はこの風潮を批判的にとらえています。というのも、サバ入りのアップルパイは生臭いからです。しかし、サバ入りのアップルパイはエアーズロック寿司で販売されています。そこで、私は会社を設立し、安価なサバ入りアップルパイをエアーズロック内部から直接輸入し、巨万の富を築こうと試みました。しかしここで私は一体この文章は何なんだ、ということに気づきました。これは学校の新聞に載せるコラムのはずです。私は正気を失ってしまったのでしょうか。というか最近コラムのネタが思いつかないのです。先月号に載せたコールセンターの係員の話は続きを2話書いていたのですが諸事情によりボツになりました。ボツとモツは響きが似ています。そこで私は千島列島から直接ブドウ糖を輸入する方法を思いつきました。ブドウ糖とモツ鍋には0個の共通点があります。そこに着目し、全国のDJブースにいるサングラスをかけたお坊さんに販売するのです。お坊さんはチェケラー!と叫びました。気づいたらまた謎の文を書いてしまいました。私は今学校の新聞に載せるコラムを書いているはずです。コラムというのは読者にへえー、と思わせたりするものです。今書いているこの文章は何ですか。意味をなしていません。しかし私はかたくなにロシアの商人に直接ラクダを売ってくれるように頼みました。するとロシアの商人はこれに応じ、首を横に振りました。気づいたらまた謎の文章を書いています。「不可説」筆者は錯乱しています。そこで私は福井駅前経由ゴミ捨て場行きの急行に乗りました。するとこの文章は一体何なのか分からなくなって、無事コラムを書き終えました。

鼻から焼きそばが出る話 前編

ベッドに寝転んで出久根達郎氏の随筆を読んでいたら、鼻から焼きそばが出る話を書くというアイデアが突然浮かんだのだが、どうにもパソコンに向かう気になれず、そのまま放っておいてしまった。一時間ほどごろごろしていざ書くぞ、となってみると、さあ大変、何で鼻から焼きそばが出る話を書こうと思ったのか完全に忘れている。どうしよう。何で鼻から焼きそばが出るんだ。地球の裏に住む人々は案外鼻から焼きそばが出るのだろうか。しかしそういうことを書いたらシーシェパードなどの捕鯨反対運動家からクレームが来るので、クジラの歯茎からラーメンを出すことはできない。思えばクジラの歯茎というものについて深く考えたことはなかったが、ネットで「クジラ 歯茎」というアホな検索をかけてみたところ、なんとまあ、「鯨の歯茎」が「鯨肉の珍味」として売られていたのだ!それは一見すると、太い毛の生えたローストビーフみたいに見え、確かに食べようと思えば食べられそうだった。恐るべし、クジラの歯茎。だって私は「鼻から焼きそばが出る」という話を無理矢理膨らませようとして「クジラの歯茎」というワードを偶然書いてみただけなのだが、今何気なく調べてみて本当に驚いている。私が不可説で適当にでっち上げたパワーワードが実在しているとは思わなかった。となると、しゃべる納豆巻きやボールペンのかば焼き、カンガルーのすり身などもアマゾンの奥地とかに実在するのではないか。カンガルーのすり身は今適当に書いたのだけど、ともかくしゃべる納豆巻きが実在することが科学的に証明されたわけだ。確かに、地球の核を構成する元素は90%以上が鉄だ。このことから、しゃべる納豆巻きは実在することがわかる。つくづく、「偶然」というものの偉大さに感心させられたのであった。

鼻から焼きそばが出る話 アナザーストーリー

出久根達郎氏の本を数冊母が借りてきて、その中の「東京歳時記」というのを読んでみたら、軽くカルチャーショックを受けた。これが随筆か!というのも、旅行記ばかり読んでいたので、純粋な「随筆」を読んだことがなかったのだ。私が普段読んでいるような本ではたいてい外国に旅行に行ったり、納豆を求めて世界中を旅したり、ジェットコースターに乗ったりしているので感覚がマヒしていたのだが、随筆というのは「普段起こる何気ない出来事に面白さを見出してそれを書く」ことが基本だということをその時初めて知った。。奇妙な出来事をつづったり、普段起こる何気ない出来事を複素数平面上で極度に歪曲させて謎の怪文書を書くのは違うのだった。同書は本当に何気ない出来事に何気なく感動した、ということがつづられており、純文学が好きではない私は半分くらいでやめてしまった。しかし、「見方を変えてみれば、本当に些細な事であってもなんでもエッセイの題材になりうる」というのは共感できる。たとえば同書には「カップ麺の重石」の話が載っている。出久根氏はカップ焼きそばが好きで、お湯を注いで待っているときにカップのフタに急須のフタを載せているらしいが、他の人は何を載せているのか気になる、とのことであった。確かに、言われてみれば気になる。私はティッシュの箱を載せている。前は3分を計るタイマーもティッシュ箱の上に載せていたが、熱でタイマーが壊れる気がしてやめた。しかし、ティッシュ箱はカップ麺のフタに載せておくと、カップ麺の味がしみ込んでおいしくなる。3分待った後、アツアツのソース味ティッシュをすする。熱いものを食べたら鼻水が出るので、それを焼きそばでぬぐう。すると私の鼻の神経細胞が猛烈に「逆だろ!」とささやき始めた。はっ、と我に返り、確かに逆だった、と反省すると、鼻からやきそばが出てきたので、それを熱いティッシュ味の鼻水でぬぐった。些細なことだが、なぜか少し感動したのである。

竹やぶにベイブレード拾いに行こうぜ

私は地理はとっていないのでその知識は中学校の社会どまりだ。県名を言えない大人を見て驚いていた中学時代の私であったが、実際に3年間も間があくとすっかり忘れてしまうものだ。タイの県名、赤道ギニアの行政区画、たまご豆腐の生産量、オガネソンの物理的性質など、もう全部言えない。京浜工業地帯とか、赤潮とか、機械類とか、ツーアウト満塁とか、そういうの聞いてもそんなのあったな…と思うくらいだが、赤潮の中では泳いではいけません、というのは覚えているし、あとオガネソンの炎色反応はどどめ色だ。そして加工貿易というのも今思い出した。これはかつての日本が行っていた、原料を輸入して製品を輸出する、というものである。これを初めてきいた小学生時代の私はへえ、にほんってすごいんだなあ、そんなことより竹やぶにベイブレード拾いに行こうぜ、と思っていたのであるが、よく考えてみたら当たり前である。製品を輸入して分解して原料にして輸出する、などという「つくってこわそう」みたいなことをやっている国などないのだ。と思っていたら、我々川口浩探検隊は、アフリカの竹やぶの奥地で「逆加工貿易」を行っている原住民族を発見した!我々が持っていたパソコンは見事に鉄やその他の金属に、電気は化石燃料に分解された。ん?化石燃料が作れるならよいではないか。じゃあこっちの電気もお願いします、こっちもお願いします、そんなことをやっている間に原住民族は怒り出し、世界を分解し始め、ついに人類文明は素粒子にまで分解され、世界は何もない混沌とした状態になったのであった…しかし、そこに「加工貿易」を行い、世界を再創造しようとする国があったのだ。それは日本だ。日本はクォークを輸入し、地上に淡路島をつくったのだ。

地名

私は地名が好きである。この時点で既に何を言ってるのかわからない、という人もいるかもしれないが、地名好きな人というのはわりといて、近所のお寺の池に光るウーパールーパーがいるのと同じくらいの確率で遭遇する。いっぽうで、私はウーパールーパーよりは地名の方が好きである。これで何を言ってるのか分かっただろう。要するに、大土呂とか、花堂とか、細呂木とか、計石とか、そういうのが大好きである。バスの停留所でも、越前海岸には左右(そう)、大玉(いかだま)、甲楽城(かぶらぎ)などナイスなのがあるし、なんなら「灯明寺」だって、字面のバランスがよくて好きである。灯と明で明るさを演出しておいて、寺で一気にしぶくする、という緩急のつけ方がうまい。これが、やれ自由ケ丘、中央、文京、高輪ゲートウェイ、マカロニペッパーランチだのと明らかに人為的にかっこつけようとした地名をつけると、たちまち減点対象となり、下手すると部分点すらもらえない可能性が出てくる。特にえちぜん鉄道の「太郎丸エンゼルランド」は、せっかくの太郎丸が無理矢理カタカナをくっつけることによって台無しにされており、全国の太郎丸に謝るべきである。もちろん得点は0点である。これならマカロニペッパーランチのほうがまだましである。いっぽうで、私はマカロニは好きではない。パスタの仲間のくせになぜサラダになりたがるのか。あまりに変な形に作られすぎてぐれたのか。しかしサラダに麺を入れることはないだろう。生野菜など塩をかけておけばセロリ以外は何でも食える。セロリは嫌いである。セロリ味、としか形容できないような謎の風味がするのだ。いっぽうで、パクチーは普通に食べられる。何を言ってるのかわからないだろうが、この文章全体から野菜を毎日摂りましょうという[要旨]を読み取れなければ0点である。[筆者の主張]に注目して解答を書く努力をしたい。

怖い話


私はこわがりである。特に、都市伝説とかうっかり見てしまったら、その夜眠れないばかりか、下手したら3日くらい長引く。小学生のころ、番組表で怪談番組の説明を読んで1週間以上眠れなくなったし、ポンペイの観光記事を読んだ時も、火砕流が襲ってこないかとか、ローマのおばけが出てこないかとかいって3日眠れなかった。ましてや、ちくわぶが襲ってきたらもっと心配である。これは私の友人から聞いた話なのですが、ある廃学校に忍び込んだ2人の男の子がいました。怪奇現象が起こる、とまことしやかに噂されていたからです。名前をたかし君、わたなべ君といいました。2人はまず生徒玄関から建物に入りました。噂では手洗い場の蛇口をひねってみると血が出たり、誰もいないはずなのに校内放送がかかって反町隆史の「POISON」が流れたり、音楽室に飾ってあるショパン、ベートーベン、反町隆史の像がこっちをにらんで来たり、二宮金次郎の像が錆びているうえに誰も掃除しないので汚かったり、窓が若干割れていたり、理科室に人体模型が置いてあるなどということでした。しかし、学校の中では何も起こりませんでした。つまらない、と思いながらも、安堵して生徒玄関を出ると、突然後ろからヒタヒタ、ヒタヒタ…と足音が聞こえてきたのです。はじめ、2人は空耳だと思いましたが、タモさんがいないので空耳ではありません。確かに足音が聞こえてきます。恐る恐る後ろを見ると、血まみれのちくわぶが立っていました。「お前だーーーーー!!!!!」と、わたなべ君は言いました。その後、2人は逃げましたが、いくら逃げても、振り向くとおおむね1.5m~2mの距離にちくわぶが立っています。2人がそのちくわぶを拾って食べると、たちまちお腹を壊し、2人は入院してしまったということです…

変な文字


「変な文字」といったら、たいていの人は「ハングル」または「アラビア文字」を思い浮かべる。というか、この世の全ての変な文字がアラビア文字だと思っている人もいる。しかし、アラビア文字はただ右から左に読む、文字がつながって書かれて違う形に変化する、母音を表記しないので文脈に応じて母音を補って読むというだけであり、比較的変じゃない部類に入るのである。そして、ハングルは音声学的見地に基づいて作られ、簡単にかつ体系的に朝鮮語を書けるように設計された文字なので変な文字とは対極にある。「変な文字」とは「どうしてそうなった」と突っ込みたくなるような、非合理的なものを言うのだ。たとえばオガム文字は下から上に読む。しかしこれはまだ序の口だ。イースター島の粘土板に刻まれたロンゴロンゴを見てほしい。これは1行読んだら、板を180度ひっくり返して次の行を読むのだ。しかもこいつは未解読文字で、解読される見込みも当面なさそうである。また宣教師が考案したカナダ先住民文字は、子音を表す文字を回転させることにより母音を表現する。何を言ってるのかわからないと思うが、「∧」が「ピ」、「∨」が「ペ」なのである。天才的だ。同じく北米の文字として、チェロキー文字があげられる。これはチェロキー語を表記するためにネイティブアメリカンの銀細工師シクウォイアが考案した文字で、当初は一語につき一つの象形文字を定めていたが、途中で親戚に紙を燃やされたためやけくそになって、A,B,,C,D…という字形をそのまま拝借してチェロキー語の音を表すことにした。しかし、ここがやけくそポイントであるが、シクウォイアは字形は知っているが発音は知らなかったので、形だけ借りてきて音は適当に当てはめたのである。たとえば「D」は「ア」と読む。「CWУ」は「ツァラギ」だ。天災的だ。

カーブミラー

カーブミラーはいい。といっても、このカーブミラーは形状がいいなあ、ウッホイ、ここのオレンジ色とか最高だなあ、ウッホホイというようにカーブミラーそのものを賞美しているのではなく、まあ「しんにょう」の形状について学級日誌に書くくらいなので私も同類なのだが、カーブミラーがある風景が好きだ。しかし、カーブミラーがある風景を見に行くぞウッホホイと積極的に見に行くわけではなく、ただそこら辺の道、とくに人気のない山道とかにカーブミラーがあるとうれしくなるだけだ。だってカーブミラーのミラーの部分の下には「注意」と書いてある。これはすなわちカーブミラーに注意、ということだ。そもそもカーブという時点で何らかの分岐を示す岐路であるので、うっかり違う方向に曲がってしまったらなんか変な世界に連れていかれるのに決まっているのだ。カーブミラーは異世界の案内人であり、うっかり巨大なめんたいこが比叡山に向かって飛んでいくような変な異世界に行ってしまわないようにと注意を呼び掛けているのだ。先日も足羽山にカーブミラーがあって、私は左に行こうとしていたのだが、右を見ると七色のまわしをしめてニンジンのコスプレをしたおじいさんたちの大行列が口から真珠を吐き出しながらこっちに向かってきていたので、あわててそっちの方に逃げていったのだ。そしてたどり着いたのがここだ。

日記

私は文章を書くのが好きなので、じゃあ日記でもつけよう、三日坊主にはなるまい、と思ったら見事に三日でやめた。どうやら日記というのは三日でやめるようにと人間の体内時計にプログラムされているらしい。しかも字が汚い。こんな汚い字を書いていたらバカ田大学の先生にも読んでもらえないだろう。もっともあそこは偏差値100を超えているのだが。それで、三日目の日記の内容は「水無月 第四週 廿四日 木 今日はあまりイイコトがなかったなあ。5,6時間目は死んでいた。(友達の名前)は幻覚がみえないらしい。私は生物のじかんにパリの地図がみえた。家に羽アリ入る」。ひょっとすると羽アリが日記やめさせ光線とか、三日坊主酸ナトリウムとかを放出しているのかもしれない。日記をやめさせた羽アリは勝手に日記を書き換える。「水無月 第四週 金 廿五日 今日から羽アリが日本の総理大臣になりました」こうして日本は羽アリが支配する国となり、県知事の代わりに県アリが派遣され、県を廃止して亜里(あり)に置き換える改革を断行した。それで福井県は越前亜里と若狭亜里に分割されたが、ここで敦賀市の帰属が問題となる。「水無月 第五週 友引 廿六日 福井市長と若狭市長が敦賀市をめぐってスモウで闘って、朝青龍が勝ちました」「水無月 第五週 大安 廿七日 朝青龍がモンゴルの大統領になりました」「水無月 第五週 廿八日 赤口 白鵬核融合発電を実用化しました」「水無月 第五週 廿九日 先勝 把瑠都がCO2の排出を0%にまで減らし、南極の氷を元に戻しました」「水無月 第五週 丗日 仏滅 遠藤が日本相撲協会衆議院参議院と並ぶ第三の議院とし、日本はスモウレスラーが支配する国になりました」。どうやら羽アリが国の支配者になると七曜が六曜に置き換えられるようだ。

必修科目の話


どうして古文や漢文を必修科目として学ぶ必要があるのだろうか、いや、学ぶ必要はない。漢文は昔の中国の言葉であるから、国語で学ぶのはわけがわからない、という人がいることだよ。それに対して、古典を必修にするのがよいと思いなさる女房たちは、日本の伝統的な思想を知る必要がある、漢文も日本の人の考えにたいそうとおっしゃる。人は、それならば現代語訳を示すのがよい、文法まで学ぶ必要はない。古代の言語の文法などを学んでも実用的ではない。とおっしゃる。私が思いますことには、ここからふつうの言葉で書くが、どうして文法まで学ぶのか、ということは、源氏物語 現代語訳、とググり申し上げればすぐにわかる。「源氏物語 現代語訳 おすすめ」という検索候補が出てくるのだ。源氏物語の原文はひとつしかないが、現代語訳は複数ある。つまり現代語訳は別の人の解釈を経由してしまっており、原文の内容やそこに秘めたる古人の思想、習俗、細かなニュアンスを正確に写し取っているわけではないのだ。しかしそれでも、日本の伝統的な思想を知ることが必須である理由の説明はついていない。そういわれると厚みのある教養がどうとか、人生を豊かにするとかどうとかいう怪しい言葉しか出てこなくなる。私は「古文がなんで必修なのか」ではなく「古文と同様に教養を身に着けることができるほかの学問がなんで必修じゃないのか」を問題とすべきであると思う。古文は必修だが日本史や倫理は必修でないのは明らかに矛盾している。特に政治経済は文系ですら必修でなく選択制で、これは大いに問題である。といっても私は政経をとっていないが、ドント式を知らない中納言、需要と供給の関係がわからない僧がごまんといる。あと私は選択していないけど、物理や化学の知識も文系でも持っていた方がいいと思う。元素周期表が言えない上達部(かんだちめ)、運動方程式を知らない殿上人(てんじょうびと)がそこらへんを闊歩している。つまるところ、私が提案するのは、全部の学問を全員必修にしましょう。来週もまた見てくださいね。じゃんけんポン!うふふふふふふふふ。